天山酒造の歴史

1861年(文久元年)

佐賀県小城郡小城町岩蔵(祇園川河畔)、現在地にて製粉製麺業を始める。

弊社のルーツは水車業です。現在地(佐賀県小城市)で小京都小城の祇園川の清流を利用し、水車業を営み、製粉・製麺業を文久元年(1861年)に開始します。当時、鎖国中の日本が海外へ積極的に目を開き、勝海舟が咸臨丸でアメリカへ初航海を行った頃の事です。七田家は水車業をして既に地元の造り酒屋からも酒米の精米を引き受けていました。

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天山製麺部工場入口

1875年(明治8年)

同地にて七田利三・ツキ夫妻が酒造業を始める

明治8年(1875年)、廃業される蔵元から酒造道具のみでなく酒蔵まで購入依頼を強く受けて、初代蔵元となる七田利三はやむなく町内の酒蔵を購入してしまい、この結果、「七田家は造り酒屋をも始めるらしい…」との風評が広まり、酒造業を始めることになったというのは嘘のような本当の話です。 水車業からスタートした製麺事業は大正、昭和と当時最高の製造設備で操業したが、昭和30年代後半で終止符を打ちました。 その中でも、高級素麺はその品質が「日本一」だとの折り紙を関西一の老舗料亭主人からつけられたりしていたと三代目蔵元・七田秀一が満面の笑みをたたえていた。

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昭和30年代後半まで操業された製麺工場

1936年(昭和11年)

二代目蔵元 七田秀一が合名会社 七田本店を設立

二代目蔵元・七田秀一(初代秀一)は商売の傍ら、建築に造詣が深く、自前(非営利)の本格的な製材所を持ち、大工さん、左官さん、ブリキ屋さん達を抱えていました。
そして、酒蔵の建築のみならず、岩蔵寺や地元小学校に立派な校舎を建てて寄進するなど地域貢献にも積極的に取り組みました。
この二代蔵元の建築に対する「こだわり」は現在の「明治蔵」「大正蔵」「昭和蔵」及び「竪型水車」とその水路が各々国の有形登録文化財に登録され、佐賀県遺産にも認定され、今尚立派に酒造りの舞台となる現役蔵として活躍している所以である。

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大正5年 宮内省御用酒
初代七田秀一(左)岸川氏(右)

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水害前の天山酒造の母屋

1959年(昭和34年)

三代目蔵元 七田秀一(襲名)時
資本金9,000千円 天山酒造株式会社に改組

三代目蔵元・七田秀一(二代秀一)は農業に造詣深く、酒米の研究にとどまらず終戦直後の21年春に戦後の地方農業の復興を夢見て、農業者のリーダーの育成を志し、私財を投じて、専門の農業大学を創立しました。
農業経営から大学まで創立したほどの農業へのこだわりは酒造りへ活かされ、昭和30年代当時希少であった酒造好適米「雄町」を直接自身の圃場で栽培するなど原料段階から徹底したこだわりの酒蔵経営を行った。

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昔の酒造り風景 研究室

1971年(昭和46年)

四代目蔵元 七田直男時 資本金18,000千円に増資

四代目蔵元・七田直男は日本の高度成長期(昭和40年代)に日本酒の消費拡大に対応すべく、精米設備の整備や仕込みサイズの変更、瓶詰め設備の近代化などを行った。
また、当時はまだ知られていなかった純米清酒(無添加酒と称していた)も先駆けて醸造し、純粋日本酒協会の会員として「純米酒の普及啓蒙活動」にも積極的に取り組んだ。

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昔の酒作り風景(洗瓶)

 

 

1976年(昭和51年)〜2009年11月

五代目蔵元 七田利秀

「こだわり」の精神は平成の現在も天山のDNAとして脈々と引き継がれ、「品質第一の酒造り」の姿勢で原料となる酒米栽培からこだわり、契約農家と年に何回も品質向上のための研究会を実施するなど、「酒造りは米づくりから…」との思いは五代目蔵元・七田利秀が経営の理念として掲げる「不易流行」の「不易」の部分である。
また、1997年からは九州内流通限定ブランド「岩の蔵」を立ち上げた。

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2009年(平成21年)12月

六代目蔵元 七田謙介 代表取締役就任
新しい日本酒への取り組み

さらなる品質向上のために2015年11月から最新式の充填ラインを稼働。
窒素ガスを注入して酸素の少ない状態で充填し打栓できるイタリア製モノブロック充填機の導入により酸化を防ぐことが可能になりました。
また、世界に通用するスパークリング日本酒をの開発にも積極的に推し進め、天山酒造の六代目当主・七田 謙介が理事を務めるawa酒協会においても、新たな商品開発と普及活動に取り組んでいます。

瓶詰

イタリア製モノブロック充填機